映画「いなくなれ、群青」原作オタクの感想・考察記事
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- はじめに
- ストーリー
- 人物
- ここが今回1番個人的主観が強いところになります。あらかじめ言っておくと今回の出演者の中で僕が知ってる名前はゼロなので全員初見です。それと言うまでもないことですが僕は演技のど素人なので上手い下手の判断ではなく、「僕の中の原作キャラと比べた時の判断」です。あしからず。
- 全体・考察
- 最後に
はじめに
こんにちは。本日公開の映画「いなくなれ、群青」を見てきたオタクです。長所は手首が360度回ることです。原作大好きマンから見た今回の映画の感想と考察について書いていきたいと思います。
なお、以下階段島シリーズ1〜2巻と映画のネタバレを含みます。
ちなみに前記事にて公開前の予想などを述べているのでそちらも暇があればご覧いただけるとより本記事を楽しめると思います。
ストーリー
(おそらく)尺の関係で映画版と文庫版の2作ではストーリー展開が結構違います。
その中でもいくつか気になる点をあげると、
- 大地がいない
- 定期便が止まったりしない
- ヴァイオリンの弦があっさり見つかる
- 豊川が現実に帰る
残りの違いについては人物の項で後述するのでとりあえずはこの4つですね。
まず、前3つの項目に関しては全部尺の都合だと考えれば全部納得がいきます。
前記事でも述べたように限られた尺の中で大地の問題を解決するのはほぼというか絶対無理なのでそこを削り、そのかわりに文庫版2巻でも登場した豊川と彼女の周りで起こる問題によって階段島の在り方に対する問題を投げかける。音楽祭までの期間が短い(確か弦が切れてから三日後)だから定期便を待つ余裕は無いからあえて止める必要はないし、そもそも時間軸がクリスマスでない以上わざわざ堀が定期便を止める理由もない。ヴァイオリンの弦の入手方法は多分七草が魔女を特定したりしようとしなければ文庫版でもこうやって優しい魔女が届けてくれたと思います。
特筆すべきは4つ目の「豊川が現実に帰る」ことについてです。
僕個人としてはこれはとてもよい原作改変だと思います。映画内で豊川は音楽会を乗り越えることで捨てた自分の弱さを克服してるのでその豊川が現実に拾われるのは当然の帰結なはずです。あと灯台が光ってる描写がほんとにいいですね。今回の映画でトップクラスに好きなシーンです。
人物
ここが今回1番個人的主観が強いところになります。あらかじめ言っておくと今回の出演者の中で僕が知ってる名前はゼロなので全員初見です。それと言うまでもないことですが僕は演技のど素人なので上手い下手の判断ではなく、「僕の中の原作キャラと比べた時の判断」です。あしからず。
七草
今回のキャストの中で一番僕のイメージする人物像に近かった。会話中のためや表情、目線やちょっとした動作からニヒリズムが溢れてる。特にちょこっとだけ俯くようなシーンがほんとにすげえ。横浜流星より上手く七草を演じられる人間が思いつかない。
そして同時に個人的に原作と一番違うキャラ。七草の抱く、ピストルスターに対する並外れた感情があまり伝わってこなかった。他人を信仰するタイプの人間はどこか相手を自分と同じヒトだとは思ってない節があると思ってるので(春琴抄の佐助をイメージするとちょっと伝わる気がする、彼とはベクトルがかなり違うけど熱量はそう変わらないと思ってる)そのヤバさを感じたかった。正直ここら辺を一番期待してましたね、僕が文庫版1巻で一番好きなのは七草が現実の七草に対してキレるシーンなので。そこら辺がカットされた七草、なんか丸すぎるんだよな。
多分ここは何が言いたいか伝わってないと思うんですけど要は映画の七草、解釈違いだってだけです。
真辺由宇
真辺も僕が普通とのズレを期待していた人物だったしなんなら真辺は言動のいたるところに異質さが垣間見えてるはずだって思ってるので七草よりも全然ハードルは高かった。原作の、特に1巻は七草の一人称が多いからその分真辺の特別性が強調されてる印象があるんですよね。それが表現されてたら多分劇場で号泣してた。
でもそれ以外の、真辺の普通の女の子要素はめっちゃうまかった。多分現実世界の真辺やらせたらめっちゃくちゃハマると思う。
佐々岡
これは残りの何人かの人物に関しても言えるんですけど僕がこの映画見て思ったのは全体的に階段島の住民達の「失くしもの」がだいぶマイルドに表現されてる気がします。先述の2人に関しても僕の思い入れが強すぎて納得いかないだけで多分そういう話ですよね。佐々岡に関しては2巻で言及された『純白』、つまり主人公への憧れが思ってたよりも強くないのかなって感じがしました。原作の表現を借りるならこの映画の佐々岡は混色であることをある程度受け入れているみたいな。そのうえで映画の佐々岡は原作よりもより現実感のある高校生としていいキャラが出てたと思います。
委員長
原作の佐々岡と委員長って「白」でも描写された通り『純白』を目指してるわけですけど映画の委員長もやっぱりそんなに『純白』を意識するようなキャラメイクはされてないんじゃないかなと思います。「望んだ対応をする完璧な鏡」を目指すっていうよりはもうちょっと控えめな「みんなによく思われたい」位なのかなって認識です。
委員長が『純白』を目指すならその体現である真辺に対する苦手意識のようなものがもっと伺えると思うんですけど映画内では一番感情的になるのが自分と同じ混色である佐々岡なあたりは多分『純白』への執念より同族嫌悪的なものの方が優越してるってことなんですかね。僕が「白」で一番好きな部分は終盤で委員長が真辺に対して「メリークリスマス」って渾身のプライドを込めて言うところなのでそういう委員長が見れなかったのはちょっと残念でした。
でも、映画の委員長をそういった混色寄りのキャラクターだとするなら本当にうまい演技だと思います。特に感情的になる部分、僕が高2の時の風紀委員長まるっきりこういうタイプでした。
堀
評価できない。流石にこの尺で堀を映像で表現するのは無理がある。どんなに演技うまい女優でも無理だわ。そもそも原作だって2巻まで読んで堀をどこまで理解できるかって言われたら本当に浅いとこしか理解できない気がするし。なので観る前までは正直ただの無口で無表情な女の子になってもこればっかはしょうがないな、なんて思ってました。いや、凄いですね。口を開くまでの間とかちょっと七草を気にするシーンが堀ポイント高い。想像以上に堀でした。堀の優しさを表現するなら冗長な手紙とかもっと堀に焦点を当ててかないと無理だと思うのであの映画の枠内で表現できるだけの堀を演じ切ったと思います。めちゃくちゃ個人的な解釈を言うなら堀は喋るときはちょっとアガった感じになるんじゃなくてゆっくりと絞り出すような感じで喋るんだと思ってます。素晴らしい。
100万回生きた猫
え、名前全部「ナド」で通すの?って思ったけど100万回生きた猫について語る尺も七草と毒にも薬にもならない話をする尺も無いしそれもそうか。「失くしもの」がめちゃくちゃボヤけてなんかサボり癖のある不思議なお兄ちゃんみたいな感じになっちゃってる感じがありましたね。あながち間違っては無いけども。それでものびをするシーンとかは100万回生きた猫だった。「ナド」の役の中で「100万回生きた猫」っぽさを出せてるのは尊敬します。
豊川
彼女は原作では「目上の人の前だとガチガチに緊張する」って感じだったけど映画では「人前でガチガチに緊張する」になってるのかなって印象でしたね。一人だけ「失くしもの」が重くなってる…。
そういうことも踏まえるとやっぱり「白」と違い完全に自身のトラウマを乗り越えた彼女が島を出るって言う結末はすごい素敵だと思います。
トクメ先生
前記事ではトクメ先生が仮面をつけてない理由が全くわかりませんでしたけど彼女もほかの人物達の例に漏れず「素顔で生徒と向き合えない」というのが無くなってますね。じゃあどうなったっていうと答えづらいですけど。あんま出てないし。ただ理由は納得できてほんとに良かったです。彼女と真辺の会話が教室だったのは結構意外でしたね。そこらへんは後述で少し掘り下げます。
時任さん
近所の優しい配達お姉さんって感じ。グッド。彼女の傷が明らかになるのは5巻だしこの映画が作られてる間は監督が4巻までで読むのを止められてたそうなので時任さんについて詳しく掘り下げることは無いですけどEDで白ワンピ着て堀と一緒に出てくるシーンはへんな声出そうになりましたね。セリフもいい……。キョェッ(絶命)。
小暮
彼が消えた日の昼食を七草が佐々岡と食べてたのを見たときは優しいなって思ったんですけどもしかして映画内で七草が普段100万回生きた猫と飯食ってるって描写無くてもしかして七草、いつも教室で飯食ってるのか…...?ってなりました。ここも後でちょっと触れます。
特別掌編も、コミックス1巻の話も好きです。
全体・考察
それでは今までの要素を踏まえた上でこの映画に対する僕の感想と考察を書き連ねていきたいと思います。
まずは「階段島」について。
この映画は本当にうまく階段島の生活を描けていると思います。
ただ、この島(と堀)の「優しさ」がうまく伝わらなかったな、という感想も抱きました。これは登場人物達の「捨てられた人格」がマイルドになったって言ったのと関係してるんですけどそれのせいで現実感が出過ぎちゃってるんですよね。勿論、原作未読の一般層に対してのウケを考えるならある程度感情移入が出来る方がいいっていうのはその通りなんですけどそれでも階段島が非現実だっていう意識が根底にあるからこそあの島の持つ「優しさ」っていうのが引き立つと思ってるので、そこは仕方ないとは思いつつも結構残念でした。ただ、最後の雪が降るシーン、あそこは本当に優しい階段島そのものでした。ありがとう。
「現実感」について。
直前の話題と同じようなものなんですけどこの作品って原作と比べたときにいくつかの部分をより現実っぽく落とし込んでるような気がするんですよね。トクメ先生の仮面だったり100万回生きた猫の名前もそうですけど、トクメ先生と真辺の「納得」に関しての会話もその一つだと思います。勿論尺という理由もありそうですけどあの会話とそのあとの七草と真辺のやり取りが教室で行われたのを見て僕は薄らと「この物語は真辺と七草じゃなくてこういう学校が基軸になるのかな」なんてことを思いました。七草もいつもみんなでご飯食べてる感じだし。あとは真辺が電柱に飛び蹴りしたり密航したり石で窓を割ったみたいな彼女の異質さを端的に示すエピソードがないせいで真辺がちょっと頑固な不思議ちゃんみたいな印象を抱かせてしまいそうだなとか思ってます。
あと、ラストの真辺と階段登るくだりですね。
大地のことが無くても七草なら現実の七草に対して「お前のせいで真辺が自分を捨てた、ふざけんな」位は言うと思ってるんですけどそれで変に引っ張るのもよくないから切ったんでしょうか。階段島の非日常さを示すものがことごとく削られてますね。
まあ、そこは既に触れたので置いておくとして、僕が疑問なのは最後真辺が一度現実に戻った(多分)ことです。大地の件があって初めて真辺は現実で大地の問題を解決しなければと思って島を出ようとして、それでも結局島を出てないのに映画では現実に戻らなければならない理由もないのに真辺が現実に戻ったのが少しわかりませんでした。真辺なら階段島に対して納得のいく答えが見つかってないのに1人で現実に戻るなんて絶対にしないと思ってるんですけどどうしてなんでしょうか。考えられる理由としては島に残る理由を「真辺と七草が一緒にいれることの証明」にする際にその動機づけのためには階段で真辺自身と出会って話すか一度現実に戻らなくてはいけなく、階段で自分自身と話すと七草同士の会話も必然的に必要になるから一度現実に戻ったことにしたって感じですかね。ほかの意見がある方は是非教えてください。割とマジで気になってます。
まとめに入る前に余談です。
先程僕はキャストは全員初見だって言ったんですけど実は製作陣の中に2人、知ってる方がいるんですよ。それは主題歌を手がけたsalyuと小林武史さんです。去年のap bankフェスは三日間全て最前から2列くらいに位置取って友人と一緒に盛り上がったくらいにはファンです。「僕らの出会った場所」いいですね。小林武史さんの歌詞と曲もいいけどsalyuの声がいい。堀の優しさの具現だよあの声は。優しいんだ……。いや、本当に素晴らしい。こればっかりは元々好きなので客観的に評価できなくて申し訳ないです。でもsalyu好きだ……。ありがとう……。
最後に
僕はこの映画は「階段島が舞台の青春の話」としてはめっちゃくちゃ評価してます。階段島シリーズを映画に落とし込んだ作品としては限りなく最高に近い作品だと思ってます。監督すげーよ、ほんまにこれで新鋭なんですかってレベル。これは未来予知ですけど絶対監督これからヒット作作るから情報チェックしておいて損はないです。
ただ一方で、僕の主観からすればこの映画は「階段島シリーズ」の映画化としては失敗だとも思ってます。
僕が階段島シリーズを読む時に重点を当ててる部分の悉くが切り捨てられてる。ピストルスターへの想いや「失くしもの」以外にも例えば音楽会で真辺がピアノで勇気付けたシーンとかもあまり納得できませんでしたね。なんでそんな綺麗なやり方なんですか?いくら委員長に言われたからってそんな遠回りしないでしょ。どんだけ汚れても真辺はまっすぐ進んで、それを七草が照らし導くんでしょう。あそこで真っ先に動くのが佐々岡じゃなくて真辺なのはいいんですよ。でも真辺由宇はピアノに座る前に絶対豊川のところへ行くはずだ。
『いなくなれ、群青』でも『その白さえ嘘だとしても』でもないこの映画はなんなんだ。
イメージで語るなら、階段島シリーズは一枚の綺麗な文様の紙で、それを映画化するっていうのはその紙を立体の箱の中に詰めて、それをラッピングするようなものなんですよね。ラッピングはめちゃくちゃ綺麗だし箱の中に詰めた紙も綺麗な文様が映えるようにめちゃくちゃ努力はされてるんですけど箱詰めにしてる以上見えない部分はあるし箱に詰める過程で折りたたんだ部分もあるんですよ。
それの何が一番いけないってそもそも綺麗な紙を箱に詰めようとする発想自体がダメなんだと思います。なんで出来ると思ったんですか?僕この記事で何回尺って言葉使いましたか?なんで素人が映画の感想言うのにのに尺を考えなきゃいけないんだ。
原作を知らない人がこれを見て『いなくなれ、群青』ってこういう作品なんだなって思うのが僕は何より悔しいです。
僕は、この作品はお世辞抜きで素晴らしい作品だと思ってるし、もし大地や安達がいない階段島で始まる物語があるとしたらこれはすごくいいストーリーだと思います。ただ、そこに『いなくなれ、群青』ってラベルを貼ってるのが許せない。なまじ出来がいいからこそ、それを『いなくなれ、群青』と呼びたくないんです。せめて別のタイトルなら良かった。『受け入れる幸せは混色でいい』みたいな別タイトル(多分この作品を作れる監督ならもっといいタイトルを考えられる)で、階段島の別世界線での話としてこの映画が出たなら僕は絶対にこの映画を最大限に称賛しますよ。もっとも、そんなごく一部のファン向けの映画は実際に出ることはまずないですが。
個人的にこういうネット越しでの一方的な中傷みたいなことするの大っ嫌いだし、中身だって最初から最後まで「クオリティは高いけど解釈違いです」って駄々捏ねてるだけの文章なので記事にするかは結構悩んだんですけど、こういうことを考えてる奴もいるってことをあの映画をご覧になったみなさんに知っていただければと思いここまで書きました。
もし映画を見て原作未読、原作は読んでるけど映画を見てない、といった方がいらしたなら是非読んで、見てみてください。好き嫌いはともかく階段島に対する新しい視点が出来るのは間違いないです。何度も言いますけど映画のクオリティはマジで高いので。
それでは。
ご意見、ご感想は@ke_read まで。お待ちしております。オタクは語るのも語られるのも好きなので思いの丈をDMに連ねるだけでも歓迎です。
追伸
俺は正面にでっかくピストルスターが書いてあるだけのグッズが欲しかった。
2020年1月20日、大幅に加筆修正を行ないました。